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  1960 年代の日本は、脳卒中全盛期でした。当時は、脳出血が多かったこともあり、 脳卒中の治療原則は、「倒れたその場で絶対安静」でした。 だから、脳卒中患者は、死亡を免れても、殆どが、寝たきりになられました。
 自立して自由に生きるのが、幸せの第一条件ですから、脳卒中には、日常生活を自立 させるリハビリが最も必要と考え、1963年に、日本にリハビリ学会ができるとすぐ加入 し、豊橋では、一番最初に、リハビリを行う病院としました。

 

 

  入院患者さんの大部分が脳卒中と言うこともあり、オムツの交換、体位変換、そして食事の介助など、必ずしも看護婦さんでなくてもできる仕事が多かったので、このような患者さんの身の回りのお世話をしていただくために、介護職という職制を新たに作り、 その募集をいたしました。

 

 

  さわらび誌は、1973年5月1日山本病院の院内報としてスタートしました。私たち職員にとって「さわらび」は特別な存在であり、さわらび会の歴史そのものです。さわらびには「みんなの力でみんなの幸せを」実現するために今私たちがしなければいけないことを常に考え試行錯誤しながら活動してきた内容がいっぱい詰まっています。

 

 

  老人学校と称して患者さんたちにお集まりいただいて、古今東西の名曲鑑賞、小説や詩の朗読、英会話などの授業を始めました。この他、宗教講話や詩吟はボランティアの先生にお願いしてそれぞれ好きな授業をうけていただきました。

   院内の患者さんだけでなく、向学心に燃える町のお年寄達にも参加していただこうと考えて大学を広く開放しましたら、噂が瞬く間に広がって市内の各地からだけでなく、浜松や新城からも講義を聞きにいらっしゃるほどになりました。現在、さわらび大学として活動しています。

 

 

  私が認知症を生涯の課題にしようと決意した時には、すでに山本病院にも認知症の患者さんがいらっしゃいましたので、先ず、どのような患者さんが良くなられ、どのような症例がどんどん悪くなってゆかれるのかを、観察することから始めました。

  そこで、認知症の患者さんを幸せにするための「認知症介護の三原則」を作りました。

   1. いつも暖かい愛情と笑顔で

   2. 決して叱らず、制止せず

   3. 今、できることをしていただく

 

 

  日本の高齢化が始まったばかりの頃だったので、お年寄りが病気になった時にご家族の方は看病の仕方が分からないという時代でした。患者さんのご家族一人一人にどういう病気なのかどういった治療や介護をしたら良いのか話す必要がありましたので、家族会を発足しました。

 

 

  日本の老人が急激に増えて来た時代であり、老人の福祉制度がほとんど出来ていない時代。老人の幸せを守るためにはどういう制度を作って、お年寄りの生活を守っていかなければならないかを社会に訴えるための組織を作りました。毎月一回山本病院で例会を開いていました。

 

 

  同じ病院で働いていても働く部署が違うと殆ど出逢うこともなく、言葉を交わすこともなく過ぎてしまうことがしばしばです。折角の出合いを大切にし、その交流を深めるために全職員が交代で毎朝、自分の考えを全館に放送する「朝の言葉」を一九七四年から始めました。

 

 

  奉仕活動にも資金が必要だから、みんなが毎月の給料の百円以下の端数を寄付してこれにあてようという意見が職員から出されました。全員が百円以下の端数を寄付するのに賛成となりましたので、福祉基金運営委員会が1975年4月1日に設立されました。

 

 

  認知症患者の日常生活動作(排泄、摂食、衣類の着脱、入浴、整容など)の自立度を高めさせるとともに、大脳の働きを賦活させる働きかけを専門に行う痴呆療法士という新しい職制を設けました。

 

 

  意識不明で担ぎこまれた人が、治療とリハビリで、杖をつきながらも歩けるようになられると、退院していただきましたが、当時のご家族はまだ、お子さんの病気の看病はできても、お年寄りのお世話をする経験も知識もなかった時代でしたので、退院後間もなく、前より悪くなって再入院されたり、ご自宅で死亡される「退院の悲劇」が多発しました。

  退院していただくと危険と判断された症例は、私が責任をもって健康を守らなくてはならないと考え、社会福祉法人の認可をとり、特別養護老人ホームを作りました。

 

 

        1982年頃の福祉村                  近年の福祉村

 

  特養にもリハビリは必要と考え、リハビリの設備を完備させ、病院よりリハビリ担当者を転勤させて、毎日入居者のリハビリを行いました。
 特養で毎日リハビリを受けていると、入居者の中には、「百姓をしたいから、近くの農地を借りておくれん」と云い出される人が出るほどでしたが、このように自立できた人は、本来なら、特養を出るべきなのですが、出したら退院の悲劇ともなりかねません。
 加齢とともに、環境の変化に適応する能力は低下してきますので、症状や日常生活能力の変化とともに、施設を転々と変えられるのはよくないことですので、高齢者が利用される施設は、すべて、同じ敷地の中に作るべきだと考えました。
 更に、その頃、豊橋には、障害者の施設はひとつもありませんでしたので、自立を促進するリハビリ病院、授産施設と福祉工場などを中心として、そのまわりに、高齢者と障害者を幸せにするために必要なすべての福祉施設を作り、福祉村と名づけました。
 福祉村を利用される人々には、ご自宅に近い環境が必要と考え、郵便局、レストラン、喫茶店、日用品売店、お寺と公園も作りました。

 

 

  それまで一家のあるじとして、或いは主婦として、家族みんなを支えてこられた人が認知症になられただけでも途惑うことばかりなのに、突然激しく怒りだされたり真夜中に裸で外へ飛び出そうとされるのでお世話をされるご家族は一瞬も目が離せず、また、どうしたらよいのか途方に暮れるばかりでした。
 そこで、365日24時間いつでも、電話で、的確な対応法を認知症専門家の医師やケースワーカーがお教えするための、ぼけ110番を1980年6月に始めました。
 「ぼけ110番」という名称は、あまり良くなかったけれども、新聞で報道されたこともあって、多くのご家族から、様々なご相談を受けました。

 

 

  70年代に入り、日本人の平均寿命が延びるとともに、認知症患者が増えてきました。 当時、認知症は治らないと定義されており、欧米の専門家達も、異口同音に、認知症 と診断するまでが医者の役割で、後は、家族やナーシングホームにまかせばよいと言っておりました。
 でも、私は、認知症を抱えたご家族のお苦しみを、座視するに忍びず、少しでも、認知症を改善させたいと考え、必死に、認知症の治療に取り組みました。
その結果、認知症介護の三原則、即ち、

   1. いつも暖かい愛情と笑顔で

   2. 決して叱らず、制止せず

   3. 今、できることをしていただく

を編み出し、これを基本として、認知症のケアをしましたら、70 年代の日本では、血管性認知症が多かったこともあり、多くの症例が、よくなりました。 しかし、1985 年頃から、日本でも、アルツハイマー病の方が多くなり、いくら努力しても、症状が進行する症例が増えてきました。
今後、日本では、平均寿命が延び続け、それにともない、認知症も増え続けますから、私達は、認知症改善のために、全力を傾注してゆきたいと考えております。

 

 

  福祉村のお祭りです。外からも大勢の方々に来て頂き、みんなで楽しく遊べるお祭りを開きました。毎年一回、現在も続いているみんなが楽しみにしている年間行事の一つです。

 

 

 

 

 

  漢方薬の中に認知症を少しでも良くするものはないか探したいと考えました。第一に、西洋薬は拒否しても漢方薬なら喜んで飲まれる人が多かったこと、第二に、証に随って投薬すれば副作用は殆ど出ない上に年をとって弱くなった免疫力を賦活して感染症を防ぐ効果を持っているものが多かったからです。

 

 

  二階から七階までが宿舎で、1Kが 30 戸、2DKが6戸、3LDKが 18 戸、4LDKが6戸、計 60 戸あります。この宿舎の名前は、みんな仲よくと言う意味で「なかま」としました。

 

 

  老人保健施設は、家庭と病院の中間にある施設で、退院してもすぐに家庭に帰れない状況の方や、入院するほどでもないが家庭療養は無理という方が入居されており、麻痺や痴呆のある方、寝たきりの方など様々な障がいを持った方がいらっしゃいます。

 

 

  3年間に渡って、長寿社会開発センターの委託によって老人の生きがいについて研究をしました。結果、いくつになっても老け込まないで健やかに長生きするためには、腹八分目とか規則正しい生活というような身体面の注意とともに、趣味と親友を持って日々楽しく生きるとともに、まわりの人の幸せに役立つ働きをすることが非常に重要であることがわかりました。

 

 

  院内に、長寿医学研究所を作り、先生方にそれぞれ研究に励んでいただき、その成果を学会や医学雑誌に発表しております。

 

 

  ご家族のご協力により、当院には、現在530例程の脳が保管され、さらに増え続けています。脳を研究されている日本および諸外国の大学や研究所と密接な連携をとり、その成果は脳科学の進歩にご協力させていただいております。

 

 

  クシナガラ近くの土地にインド福祉村の建設を始め、診療を担当して下さるグプタ医師も着任されて、1998年11月に診療を始めることができました。

 

 

  高齢者福祉施設だけでなく、身体障がい者や知的障がい者の施設を持っている全国の複合的な大規模社会福祉法人が共通の課題を話し合う場を作りました。年一回開催しており、第1回目を福祉村が主催し、現在までも続いています。

 

 

 

 

 

  ブックスタートとは、イギリスのバーミンガム市が1992年に始めた制度で、市民の識字率低下への対策として、生まれたばかりの赤ちゃんに絵本を贈るものでした。 絵本は、単に、文字や言葉を覚えさせてくれるだけでなく、子供の情感をはぐくみ、その上、本を読む習慣を身につけてくれます。 五十数カ国の子供の読書率を調べた最近の国際調査によりますと、世界の中で一番本を読まないのは、日本の子供でした。 たった一回きりの人生を、幅広く豊かに生きるためには、古今東西のすぐれた人達が書かれた本を、なるべく多く読まなくてはなりません。 そこで、2003年からこのブックスタート制を採用し、職員のすべての赤ちゃんに、出産祝いとともに絵本をさしあげることにいたしました。

 

 

  子供は、親御さんに生きがいと幸せをもたらしてくれる大切な宝物であるだけでなく、社会にとっても大事な大事な宝物ですから、みんなが協力して育ててゆきたいと考え、福祉村病院でも院内に保育室を設けて、職員のお子さんの保育をしてきましたが2004年に本格的な保育園を作りました。

 

 

  院内に、神経病理研究所を作り、先生方にそれぞれ研究に励んでいただき、その成果を学会や医学雑誌に発表しております。